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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

進化を統計で扱って





進化を統計で扱って1~47~48~49~50



「だ・である調」で失礼します。

(加筆と稿を進めること、などをやっています)



今、心脳工学を追求していっているのですが、ここに至って、DNAとRNA、タンパク質その他の追求(研究)も必要になってきています。

それとは別に、筆者は進化にも大きな興味をもちつづけてきています。

このブログなどでも、過去にそういった方面にいくらか触れた個所があります。

そのふたつの分野には、かなり密接な関係がある(と考えてみることができる)。

次のようなことを考えてみました。





進化についていうと、肉体的進化と非肉体的進化がある、といえる。

肉体的進化というのは、普通に考えられている進化であって、樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至ったということに代表されるものである。

非肉体的進化というのは、情報処理、知性、感情、理性、記憶、思考、さまざまな能力など、(本能も含める)、脳や心や潜在意識などが行う活動における進化のことである。
ここに着目している人としては、勉強不足なのだろう(こういった本は少ししか読んでないので)、筆者は自分しか知らない(こういった方面はこれから研究していきたいと考えています)。

そのふたつの進化の間には、つながりあった部分もある。

連携して進化してきている。


後者においてたとえば、数学的能力とその発現について考えてみても、そこには単純でない進行があったと想像できると思う。

まず、脳にそういったハードウェアやソフトウェアのようなものと情報の規格のようなものなどが整備されなくてはならない。

さらに、それが発現するためには、さまざまな試行錯誤やフードバック、取捨選択・有効なものの固定~利用~分解~組合せ~否定~~~~~~再出発~~~~~~など(いい加減な表現です)と進んでいくと考えてみる(ここは、ランダムな進化、を主に視界にいれて考えています)。

そういったふうに、
非肉体的進化においては、それを実現する情報構造やハードウェアとソフトウェアなどの準備、さらに、ソフトウェアの適用、それから、試行錯誤、訓練・鍛錬などといったプロセスがあると考えてみる。


非厳密非精密ながら、それらを箇条書きに書き流すと以下となる(まだ正確には表現できません)。


そういった情報構造の可能性の準備
情報構造の準備
情報
(以上にも試行錯誤があると考えてみる)

ハードウェアの可能性の準備
ハードウェアの準備
ハードウェアの活動
それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証
(以上にも試行錯誤があると考えてみる)

ソフトウェア(のようなもの)の可能性の準備
ソフトウェア(のようなもの)の準備
ソフトウェア(のようなもの)の適用
ソフトウェア(のようなもの)の活動
それらの実施・フィードバック・修正訂正・検証
(以上にも試行錯誤があると考えてみる)

以上において、現実に適用するため、現実に適応するために、
さらに、試行錯誤、訓練・鍛錬などが必要となると考えてみる。


さらに、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」の萌芽~発展~現在に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。



肉体的進化においても、それらと似たような要素はあるだろう。

そこには、肉体的なものの設計といった要素もでてくるだろう。

ただし、進化をすべてランダムに任せたばあい、設計という面は、いくらか~まったく、必要ない、という可能性もありうる。

まあ、完全にランダムに任せた進化を考えるばあいは、設計という要素を考慮にいれないのが普通だろう。

ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。

もしそういうことがあるのなら、ランダムな進化でも、いくらかは促進されはやくなるだろう。

そのことと、生物の外部に、進化に関わっている(いた)なんらかの存在があるか否か、という課題は(一応)区別される。


で少し前に戻って、さらにいうと、ソフトウェア的なものがモロに前面には押し出されない、といった予感はする。

そのソフトウェア的なものというのは、設計という要素に似てはいるが、肉体の部分部分の仕様というか、規格というか、性能というか、そういったものであって、設計と重なってはいる。

ランダムに任せた進化を考えてみるばあいは、そのソフトウェア的なものもランダムから自然発生するとするのが普通だろう。

そこでも、フィードバック・修正訂正などが必要になるか、とか、自然淘汰による適者生存となるか、とか、そういったことが考えられる。

ここも、まだまだ考えがまとまっていないので、適当な書き流しです。

(ここの部分は、肉体的進化について述べています)


それらに関連したこととして、ダーウィンは、人間の目について、進化だけでは説明がつかない、というようなことを書いていたと記憶している(うろ覚えですが)。

それは大変なことを意味しているのだろうか。


☆☆☆


筆者は、どんな研究においても、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。

ただし、必要なデータと、実験や観察結果の記録、基本的概念だけは、必要なので、集めたり知ったりしなくてはなりませんが。

そのほか、できるだけ多くの分野について、いくらかは触れてみよう、という態度でいます。

そんな中で、研究対象に関係あろうがなかろうが、「これは!」というものについては、徹底的に追求します、考えます。

過去においては、コンピュータとか、物理や化学、数学の一分野とか、そのほかでした。

徹底的に追求するといっても、中心概念や定義などを把握すれば十分です。その方面の専門家になるのでない限り。

(逆にあまりに細かくひとつの対象を勉強しすぎると、そこから抜け出せなくなったり、頭がかたくなったりするでしょう。
ただし、新しいものを追求するところの、自分の研究対象については別であって、徹底的に考え抜くべきですが。
研究という単語では語弊がある。とにかく考え抜くこと)

で、本やネットでそういったものをチラチラ見続けて、あとは自分で考える。

そうすると、短期間~中期間~長期間~超長期間で、もやもやから始まって有効な把握ができるようになっていきます。





そういうことなので、進化についても、いろんな説があるようだとは知っていますが、それらを知ろうとは今のところ思いません。

そんなやり方で、自分で考えるのが好きなのです。楽しいのです。

考えに行き詰まったら、参考にするでしょうが。




で、
筆者が、(大)昔にいろいろ考え続けたとしたら、今のような思索結果はまったくだしていなかったことははっきりしています。

たぶん、そういった状況では、詩、散文、小説、初歩的な哲学、そういったものを書いていたに違いありません(その当時存在してやっていたとしたら)。

現在までの人類によるさまざまな成果などの上に、今の私の思索があるのであって、研究・思考においても、そういったものを道具として進んできているのは一目瞭然です。

先に「筆者は、他人の研究を知ろうとはまったくしないタイプであって、なんでも「自分で考えてやろう」という姿勢にあります。」と記しましたが、そういうことがいえます。






で、学校教育について思うのですが、こんなやり方がいいんじゃないかと、今考えているものがあります。

もちろん、学習者によって違いがあるでしょうが。

学習者は、授業や講義に出席して、授業を見て聞いて、終わりの二十分ぐらいで、イラストと感想文千字ぐらいをかく。

内容は、一応、その授業に関係した点がいくらかあれば、なんでもいい。

試験はなしで、それで合格点をもらえる。

もうひとつ、自分の得意なものを徹底的に追求し発表する場を設ける。

あとは、いろんなところで主張されていて、よさそうなものを採り入れる。

学習者は、余った時間の一部は、自分の得意分野追求のために使う(学校以外での。宿題とか)。



人は、自分に必要となったら、短期間で、必要な分野をかなり吸収できます。

その方が効率がいい。

そういった教育を受けていって、自分に目覚めたら、それを追求していける。


もちろん、最初から取り組む対象をもっている人は、別なカリキュラムにしてもいいでしょう。


さらに、厳しい授業体系を求める人には、そういったものが設けられればいい。



そういった教育です。

まあ、これもそう考えてみただけであって、その有効性については知りませんが。




☆☆☆



肉体と非肉体はかみあっていてシステムとして構成されている。

神経ひとつとっても、そこを流れる信号・情報について考えてみると、信号・情報構造と、神経というハードウェアは同じ仕様・規格に従っていなくてはならない。

人間の脳と心や意識、に至っては、まさに神技、といった様相を呈している。

それは、大宇宙一・大世界一不可思議で難しくわけがわからない、という印象を受ける。



以上のような要素があると考えてみる。

(以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな対象・内容・世界である)


それらがランダムで進行(進化)してきたばあい、地球上での生命発生から人類の誕生を経て現在に至るのに要する時間を、統計的手法などで、計算できるのではないだろうか。

デカルトじゃないけれど、そういったことに関わるすべてを適切・有効なところまで分割して、それがランダムでぶつかりあって、結合したりしなかったり、そういったモデルを設定して、それによって、進化によって現在の人類に至る、それに要する時間はどれぐらいか、あるいは、そのモデルで、どういった生物が生まれてくるのか、そういった追求ができるのではないだろうか。スーパーコンピュータなどをも用いて。

そこには、先に触れた、文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象の萌芽~発展~現在のありよう、に至るプロセスをも、そこに含めなくてはならない(と考えてみる)。


さらに考えられるのは;

DNAとの関係なしの肉体だけの進化

DNAと肉体が関係しあっての進化

RNAの絡みの部分

DNAだけによる進化

DNAとRNAによる進化

肉体とDNAとの関係ができる部分

肉体とDNAとRNAとの関係ができる部分

ここには、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとの関係という面に似た要素もある、という印象を受ける。

そのほかにも、肉体やDNAとRNAなどは、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。

進化に着目した肉体やDNAとRNAなども、同じく、心脳における情報構造や情報処理の実態、それと、脳というハードウェアとソフトウェアなどとの関係がモロにある。

(ここも表現が非常に難しい。適当な書き流しであって非厳密です)



肉体の進化については、すべてランダムな進化に任せたばあい、先に述べた項目の一部は不要となる、ということも考えられる。それも考慮に入れて、ということになる。


で、現在いわれている40億年弱、では、生命の誕生から現在の状態に至るには、あまりに短いという思いがわいてくるのは止められないという人もいるだろう。


その計算結果がたとえば、1兆年、などというスケールに達することはありうる、と考えてみる。


先ほど述べた、「樹上生活をしていたリスのようなサルのような動物が進化してきて人間に至った」とされている部分については、せいぜい数百万年ぐらいかけてとされ(数値はいい加減です)、人間らしい人類が誕生してから現在までは、せいぜい数十万年経過とされているが(数値はいい加減です)(ここの表現はいい加減です)、そんな短い期間で、ここにまで至ったのか、信じられないと溜息がでるのはやむを得ない。

そこだけでも、たとえば数千億年かかるのではないか、という思いがわきあがってくるのを止めることはできない。

ただ、ある段階に達したら、文化や文明は加速度的に産み出されていく構造になっている、という気はする。

(そういった構造といった何かが、ここの部分の前の個所にもいくつか存在するのではないか、という予感もする。たとえば「ただし、感じでいうと、物質や物質の組合せの中などに、なんといったらいいか、知性的なもの・ソフトウェア的なもの、などが自動的に発生するのかもしれない、という気がする(要検証です)。」もそのひとつです)


そうやって計算した結果、
現在いわれているその値が桁外れに違っていた、ということになったとしたら、いったいどうなるのか。

いったいどういうことになるのか。

そこには、生物・動物そのもの・人間そのものから離れた何かが、進化に関わってきている、そういった結論が浮き彫りにされる、ということになると考えてみる。


そこからでてくるものは・・・




以上、さっと見渡してみただけでも、気が遠くなりそうな底無しの魅惑の深淵・世界がそこには広がっているという印象を受ける。



☆☆☆



実は、質の科学でいうと、「意識の器」というものが想定されるのである。

それはまず、思考実験からでてきた概念というか実体である。

ついで、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。

そこのポイントのひとつは分業である。

その「意識の器」をわかりやすく説明するには、コンピュータにおける「モニタ」を例えとして用いるのが適切である、と過去に思い至った。

もちろん、「意識の器」と「モニタ」は大きく異なっているが、人に説明するには、それしかない。

そういう順序で、進んできた。

で、「意識の器」を「モニタ」で例えた説明を人にしても、理解してくれない(ようだ)。

まずは、私が何をいいたいのか、それを理解してから批判して欲しいのだが、今のところ理解してくれない(ようだ)。

もちろん、そのばあいの「意識」というのには定義があって、そこも並べて説明する必要があるが、「モニタ」をもちだすと、その定義まで解説できるのである。


さらに、「心の器」というものも想定される。

それも、思考実験からでてきた概念というか実体である。

ついで同じく、脳に関するデータからも同じ結論がでてくる。

そこのポイントのひとつは同じく分業である。

その「心」というのは、普通にいう「潜在意識」なのであるが、「潜在意識」をあてると、「心」という単語の出番がなくなる。

すべて、「意識1」「意識2」「意識3」といったような形で表されてしまう。

せっかく「心」という素晴らしい単語があるのだから、それを用いたい。

その流れの中で「心」を用語として用いると、「潜在意識」は「潜在心または心」となる。

(より正確にいうと、その「心の器」は「潜在心の器」である)



ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、意識と意識内容をいっしょくたにしている。

意識内容が自分であるとしている。

(これは、抽象化した表現である)。

より具体的にいうと、ほとんどの人(すべての人、に近いかもしれない)は、自分のすべて、自分に関わるところから生まれる体験のすべて、を自分だとしている。

もちろん、それが意識できる意識内容となったものを、ということであるが。


それは正しい。

実感としては、まったくそのとおりである。

それには皆同意するだろう。

筆者も同意する。

それは、普通の考え方、一般的見解、当り前の思い、であって、そこに間違いはない。


で、そこには異なるレベルが存在する。

「自分という意識」と「意識内容」を区別する、というレベルである。

もっと詳しくいうと、脳や心と意識、について完璧に解明理解すると、「自分という意識」と「意識内容」が区別される、という現実に直面するということである(要検証ですが)。

そこにおいては、自分というのは「自分という意識」(それは、「意識の器」から生じる)であって、「自分という意識」は一生絶対に変化せず、「意識内容」というのは、今現在、自分が意識し味わっている「内容」であり、「意識内容」はいくらでも変化しうるし変化していく、という事実があるということである(要検証ですが)。


注)意識内容;意識内容については別なところでかなり詳しく説明しています。
かんたんにいうと、今、自分が自分だと思っている・感じているそのもの、記憶や感じなどをひきずったまま今意識している体験・感覚・見たり聞いたり感じたり考えたり思ったり言動したりといった現実の体験そのものを意識し味わっている、その意識内容のことです。


そこにおいて、いくつかの思考実験が考えられる。

1。
自分とまったく同じ人が今現在もう一人存在したらどうなるか、と考えてみる。

結論としては、二重の意識状態となるが、不思議だともなんとも思わない、ということになる。

しかも、その状態から、枝わかれして進んでいっても、どちらの自分も自分という意識は変わらない、ということになる。

その状態でも、自分という意識は変わらず、二重の意識状態だということになる。

それでもなお、不思議だともなんとも思わない、ということになる。

そこから、「意識」と「心(非肉体的活動を行う心。情報活動を行う心)」は別物である、という結論に至る。

つまり、「意識の器」と「心の器」は別物であって、それらは分業をしている、ということがわかる、ということである。

そこにおいて、自分という意識は、「意識の器」による、という結論に至る。


脳のデータを検討しても、同じ結論がでてくる。



さらに場合分けをするやり方で思考実験をするとこうなる。

生まれたばかりの時、自分とまったく同じ人がもう一人いて(一卵性双生児は、この設定の範疇にはいると一応思われるのであるが、実際、そうなのかどうか断定できない。ここには「意識の器」に関わる謎が含まれている)、それぞれが、まったく異なる境遇におかれて成長していったとすると、見ためと先天的な素質など以外はほとんどが異なってくる、と考えられる。

それでも、自分という意識は同じである、という結論になるしかないと思われる。


2。
ある完璧な映画システムで考えてみる。

その映画システムというのは、その映画を観ていると、自分が完璧に映画のヒーロー・ヒロインになってしまう(なりきってしまう、完璧に)というものである。

それを観て、そういった状態になっている時、その自分は、自分というのは今までの自分そのもの(つまり自分という意識が)であるが、意識内容はほかの人の意識内容になっている、ということになっている。

つまり、自分という意識は自分なのであるが、意識内容は他人になっている、ということである。

そこを理解することも、この論を理解するひとつのポイントである。



3。他人の意識の器で発生している意識内容を自分の意識の器に送り込むことを考えてみる。

これは、結局(2。)と同じになるのであって、自分という意識は自分なのであるが、意識内容は他人になっている、ということである。



4。
転生があるかないかは別として、自分が転生したらどうなるか、考えてみる。
そのばあい、性は対の性で、肉体的なものもまったく異なり、生まれや周りの人たち・育った環境・才能・性格・受けた教育・実力・実績その他すべて今とはまったく異なる、という条件をつける(つけなくてもよいが、よりわかりやすくするために)(普通、そもそもそんなことはない、と思われるでしょうが、考えてみることはできるはずです)。

その結果は、「自分という意識」だけが同じで、その他のもの・要素などは、すべて以前とは異なる、ということである。

それでも、自分は自分なのである。




さてここで、いったい転生はあるのかないのか、という課題に踏み込むこともできる。

もっとも、それも、そう考えてみることができる、というだけのことであって、要検証ですが。

そのばあい、霊魂はない、とする立場(仮定)と、霊魂はある、とする立場(仮定)に分けて考える。

霊魂はない、と仮定すると、こうなる。

「意識」は脳という物質の組織に、あるいは、その活動に発生する、となる。

で、脳の中で「意識」が生じる部位は、かなり小さな部分である、という結論がでてくる。

思考実験からも、脳に関するデータからも、そういう結論が導きだされてくる。

そこで、人間を構成する最小素子といったものを想定してみる。これは、厳密さはまったく要求されない想定でいける。

その最小素子の組合せから、人体も脳も意識の部位も成っていると考えることができる。

それらの可能な総数を概算すると、人間の可能な総数が桁外れに大きく、ついで、脳の可能な総数が大きく、意識の部位の総数はそれらよりはるかに小さい、という結論に至る。

ということはどういうことになるか。

人間が、意識の部位の総数よりも多く生まれてきたら、その通算した人数の中には、まったく同じ意識をもった人が、複数回生まれてきている、ということになる。

それは、転生の存在である。

意識の部位がまったく同じである人が複数回生まれてくる、ということは転生なのである。

そう考えてみることができる。



ついで、霊魂がある、という仮定で考えてみる。

霊魂が存在するなら、霊魂が転生する、という考え方が一般的であると思われる。




ブッダは、原始仏典によれば、「霊魂はないが、我執によって異陰(イオン)というものが発生して、それが転生の原因となって転生が続いていく」といった言葉を残したとされている。

(原始仏典が、仏陀のもっとも正確な言葉・説法を記録しているとされている)。

それについては、このブログのどこかにもっと詳しく記してありますが、そういう考え方もあるのだ、ということを示しておきます。



キリスト教でも、初期は、転生があるとしていたそうです。

今でも、霊魂はある、としているようだ。




☆☆☆



で、そこから(意識の器の可能性・規格・仕様、性能・実力、そこからでてくる心脳の情報構造などから)、以上の進化を初めとして、人間の心脳の構造・メカニズムなど(工学的モデルとそのシステム明細など)も、追求していけそうなのである、と考えてみることができる。

さらにそこから、人間の肉体の成立ちの一部の要素や、その進化まで究明(一部の要素を)できそうでもある、と考えてみることができる。


意識の器の可能性・規格・仕様をすべての出発点とすることができ、そこから必然的にでてくる心脳の情報構造や情報処理機構というものがあって、そこからさらに、人間の肉体についての要素の必然がでてくる(すべてではないが)、そういうことがいえる、と考えてみることができる。


意識の器の可能性・規格・仕様というものは、世界のすべての心的内容、世界のすべてを、映し出すことができる(それは写像の関係といってもいいし、それこそが現実だといってもいいし、それこそが世界のすべてだといってもいいし、そういう在り方でしか人間は世界を意識できないといってもいいし、とてつもなく奥の深いエリアです)と考えてみることができる。

(その、世界のすべてというものには、「文化・文明・学問、人文、芸術、工芸、工業、生産業、商業、サービス業、マスコミ、その他すべての人間が関わった対象など」もはいる(森羅万象も?))


さらに、「意識の器の可能性・規格・仕様」から世界のすべて?(ほとんど?)を解明できるというか、世界のすべて?(ほとんど?)はそこから設計できるのかもしれないというか、ものすごい世界が広がっているような印象を受ける(科学上の法則は除く?)。




そう考えてみることができる。

(そう考えてみただけです)


そこらあたりもひじょうに興味深いエリアであって、今後の追求が楽しみです。





☆☆☆




「意識」と「心」とその用語について追求していくと、現在用いられているそういった用語は定義もはっきりしていないし、人によって使いかたも異なってることがわかる。

さらに、「心」という単語はなくても済むような使いかたをしている人が多い(ほとんどの人ではないか?)。

もちろん、それは、定義と、それにどういった単語をあてるか、という問題であって、「心」という用語なしでも、やっていけるのは確かである。

それは、「意識」という用語を、たとえば、「意識1」、「意識2」、「意識3」、と変化させ、それぞれをそれぞれの定義にかぶせるのである。

しかし、せっかく「心」という素晴らしい単語があるのだからそれを活用しない手はない。

そういった定義と用語の体系の構築も、別なところで行っています。







☆☆☆

意識の器と心の器は、どうやって誕生したのかという


☆☆☆


心脳工学研究を続けてきたここに至って、私は、大ブロシキの広げすぎじゃないか、と不思議な気分になったりするのですが、一方、絶対正しいと確信があるぞ、これ以外にどこにもなにもないじゃないか、とも思います。

だいたい、私は、こんな研究をする必要性はどこにもない。

これを仕事にしようとか、誰かに頼まれたとか、一切なんにもないのです。

ただ、考えることが好きで、考える時間にも恵まれて続けてきているので、追求してきただけのこと。

おととしの末、茂木さんのサイトを見て、茂木さんの元気ハツラツないきごみにあてられ、へえ、ここが、こういった方面の今現在の課題になっているのか、これは、質の科学では、抽象的に扱って済ませることのできていた部分だが、それじゃあひとつ、おいらもやってみようじゃないか、と首を突っ込んだ結果、ここに至っているわけです。

質の科学はほぼ完成していたし、別にやる必要もなかったのに、なんでも考えたがる私は、その追求を始めたわけです。

もっとも、その研究は必要がなかったのでほとんどやっていなかったものの、気にはなっていました。

しかも、その質の科学というのも、やる必要性は皆無なのです。

私のネット・ブログ活動も同じくそうで、ストレス解消と楽しみでやっています。

考えないと気がすまない、というところです。

で、心脳工学を完成に近づけていけば、質の科学の説得性も増すことだろう、とは思います。

私の夢のひとつが、質の科学・世界哲学を世界に問うことなので、続けていきます。

ただ、そういった、あまりにも漠然として果てしない未知の深淵・世界にはいりこんでしまっているため、時々、ビビリます。ほんとに。

そんな時は、おいらがやってるんじゃない、天がやってるんだ、と思えば、気が楽になります。そう思わないと続けられないのかもしれません。


まだ、なんの評価ももらってないので、やりにくい、ということもあります。




☆☆☆



記憶のモデルとそのシステム明細




言葉のモデルとそのシステム明細

記号、音、図・文字

仮名・アルファベットは左脳、漢字は右脳

内容、概念、意味、




哲学用語は用いない

使いそうなものをさっと挙げると、

心脳のモデルとそのシステム明細

意識の器~意識~意識内容

心の器(潜在心の器=潜在意識の器)=非肉体的活動の器
~心(=潜在心=潜在意識)=非肉体的活動の主体
~知性~知性活動(いわゆる、認識、理性、感性、悟性、などはここにはいる)
~心的内容~意識内容

自律神経活動関係

本能活動関係

心(=顕在心)=意識内容

クオリア=意識という現象+意識内容(or+自分という意識)

言葉~信号~記号~内容~意味(~概念)~心的内容~意識内容
(概念は哲学用語としてではなく)

感情~感情の構造

笑い~笑いの構造

記憶~記憶のモデルとそのシステム明細







「だ・である調」で失礼しました。
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(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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 宇宙人がでました(?)



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